昭和48年7月18日  月次祭


 生神金光大神の信心をどう頂くか、教祖生神金光大神の信心を今日の、いわゆる現代社会にどう現すかというような事が盛んに言われるようになりました。教祖の御信心をどう頂くか、または教祖の信心を現代社会にどう現していくかという。やはり教祖金光大神が受けられたおかげの世界というものを、私共の日常生活の上に現していかなければならない。それが金光教の信心をさせて頂く者の使命でもまたあると、私は思う。
 その為には、教祖金光大神の、を、いかに頂くか。あなたの心の中に金光大神がどのように躍動して生き生きと働いておられるかということなんです。ですからそれは、とりもなおさず生神金光大神の心のあり方、魂の遍歴、それを私共は尋ねる以外に無いと思うです。
 今日は前講で西岡先生が、親先生をいかに頂くかという事を、まあ、実際自分自身が親先生の信心を形の上からでも、または、心の状態の上からでも一緒に起居をともにさせていただいて、この広前で修行させて、西岡雷太郎一生を神様の御用にお使い回しを頂く事の為には、いよいよ使われよい西岡にならなければならないと、最近そういう信心が先生の日常の中から、非常に感じれれるんです。まあいうならば、だんだんおかげを頂いてまいりますとやはり不安ができます。そして、まあいうなら西岡先生、西岡先生言う人も今んところはない。ですから、今こそ一番一人ひそかに信心させて頂けれる絶好の機会に頂いておる。それが、時折は非常にイライラしたり、悲しかったり、またはとてつもなく有難かったり、まあいうなら、信心の一つの、何と言うでしょうか、センチメンタルでも申しましょうか、そういう、こりゃ何とも言えん味わいなんです。信心で腹が立つ、信心でイライラする、信心があるゆえにかえってイライラする、また、信心を頂いておらなければ味わう事ではできない喜びが、また湧いてくると。そういう様々なところを辿らせて頂きながら、なら、信心の稽古をしておるわけであります。それを、また、西岡先生、自分の生涯の、願いであると同時に、生きがいだと頂いておる。
 信心もね、その信心が本当に有難いという事は、信心が私の一番有難い、大切なもの、もう私の命、いや、命以上のものというところまでなってこなければ信心が( ? )いたします。ただ、信心が有難い、はあ、お願いをする、おかげを頂く、有難いお話を頂く、そういう時だけが有難かったりしたのではです、でない反対の時にです、信心の心というものが、いわゆるあられもないところにいってしまう。だからどうしても、信心がですね、命というところになってまいりませんと本当のおかげになりませんです。もう命の中に、肉の中に、もう入り込んでしまった信心と申してもいいでしょうね。
 そこで、教祖の信心を今日に頂き、同時に現す。教祖の信心を今日に頂くという事は、教祖様の、いうなら、魂の遍歴を辿らせて頂くことだ。そこから教祖生神金光大神が感じたであろうと思われるような有難さ、また、教祖金光大神が現された、いうなら、おかげ。それを、なら、手近なところで、親先生の信心を頂くという事になってきた。
 このごろ、久留米の親愛会、久留米教会の出社の先生方が月に一回ずつ会合をいたしております。その、案内の、今日の案内のテーマというのが、初代石橋先生の信心を今日に頂くというテーマでした。いわゆる、石橋先生をどう頂くかという事を、まあ研鑚しようというものでございます。ですから、ここではやはり、何というても大坪総一郎その人の信心を頂くということではないかと思うんです、私は。もちろん、大坪総一郎の信心を通して、教祖生神金光大神につながるという事はもちろんですけれども、一番目の当たりに見る事ができ、そして頂いておるおかげを目の当たりに感じる事ができる。ですから、私がおかげを頂いていなければ、私を頂くというような事はおかしい。けれども、私がおかげを頂いておる様子というものを、西岡先生の言葉を借りると、いかに頂くか、そして頂こうと修行させていただいて、あまりにも、その自分の信心の目の粗いのにあらためて気が付いておるという話を今日しておりました。私の信心が目が詰まっておるとか、よいとかという事じゃないけれども、確かにおかげは皆さんよりも頂いておる。心の上にも、形の上にも。だから皆さんよりもいくらかましな信心、だから自分の信心よりもいくらかましの信心に、一つの憧念心を燃やすという事は、信心の稽古をさせて頂く者の一番大事なことだと私は思うですね。
 どうでしょうか、大坪総一郎の信心をです、どう頂くかと、という風に取り組んで参りましたら、信心が、私は、脈打ってくると思うです。今まで枯れておったものがいきいきとしだすと思うです。いうなら、親先生の信心をどう頂くかという事になったら、私の信心のすべてを知りたいという願いが燃えてくると思うです。そして、少しでもそれを頂けた時にです、あまりにも、天地ほどの、例えば、西岡先生の言葉を借りるとですよ、程の開きがあるのに驚くけれども、それでもなおそれにすがっていこう、それに神習わせていただこうという信心姿勢。最近はまあ、霊徳と思われるようなものを時々感じるという。昨日、一昨日でしたか、座っておりましたら、先生、今朝の四時の御祈念の時に、あの、西岡さんと言うて(おおらび?)になりゃあしなかったでしょうかと、いいや私、御祈念中そんな事あるはずもないし。ところがどんなに思うてみてもです、眠っておるでもないのに、私の耳にそれこそつんざくように入ってきた。西岡さん、まさしく親先生の声である。二度お言葉がかかったら、御祈念中の親先生のところに行こうと思ったけれども、それが、ただ不思議でたまらんからお伺いするのですというわけです。自分は確かに、正目で頂いた。いうならば、眠ってなんかいなかったとこう思っておるけれどもです、やはりうとうととしたようなものがあったのではなかろうか。そこに、西岡さん、と目を覚ませといわんばかりに大きな声を、で、親先生が私に何かを求めておられるという事に気が付いた、目を覚ませ西岡さんよと言うておられると気が付いたと言うておられます。どういう風に目を覚ますか。結局、親先生の信心をどう頂くかという事になる。そこで、私の、いうならば、足の上げ下ろしの事から、私の信心ぶりというものを形の上で、そして、ああいう心の状態がどこから生まれてくるかという事を研究する。それが、私は親先生の信心を頂こうという者の姿勢だとこう思う。そげん、親先生の信心は頂かんでん、例えばもうあげな真似はでけんとか、親先生の信心を頂かんでんおかげさえ頂きゃとか、と、まあ言葉でこう申しますとそげなことなかごたるけれども、はっきり言葉を持ってするとそういう人が多いのです。お願いをして、親先生、御取次を願って、結局何かと言うと親先生の信心を頂こうじゃなくて、おかげを頂きたいというに終わっておるという事ではです、私はおかげにならんと思う。
 そこでです、信心をさせて頂くものが、まず何と言うても純粋な、いわゆる素直な信心にならなければならん。毎日、一日から始められております一時の(?)、いわゆる御祈念が、夏の信行が始まっておる。全国一斉に始まっておる。ここでも、もうそれこそ御広前がもう割れんばかりの勢いで御祈念の信行を皆さんが続けておられる。毎日皆さんの御修行の様子をこの御結界から見せていただいて、昨日私は感じた。こうして皆さんがこの暑いさなかに出てきて、しかも朝参ってきて、また昼参ってきて、そしてまた夜参ってくる方も中にはある。そういう例えば打ち込みをしておられるが、神様がそれをどのように受けておって下さるのであろうか。または銘々がです、この夏期信行にかけるといったような願いをかけておられる方もあるかもしれん。夏期修行に、いわば、命をかける、一生懸命のものをそこにかける、ての、あの、夏期修行であろう。または、ただ親先生がああ仰るから、ただ、別に訳は無い。ただ信行、毎年の事であるから、もうそれは信者として当然のこと、当たり前のこととしてお参りをしておられる方もある。それぞれに、例えば願いを持たないものはないでしょうけれども、その願いをです、神様がこの修行をどういう風に受けておって下さるだろうかと、私昨日ここで思わせて頂いたら、★頂きます事がね、なるほどそれぞれの願いをかけておるという事はもちろん有難い事だけれどもね、合楽教会を挙げて夏期修行に入った。それに何の抵抗もなしに素直についてくるという、その素直な心、これはもう信心全体がです、修行が終わったらこういうおかげといったようなもんじゃなくて、信心全体の、例えば一生だけではない、あの世までも持っていかれるような程しのものがです、神様は、それに対して、その素直な心に対して応えておって下さるという意味の事を非常にいろんな難しい言葉で頂きました。とてもね、問題はね、親先生が手を挙げと仰ったら、はいとみんなが手を挙げる、はい右の(?)と言うた時に左の方どん挙げとるようなこっちゃいかんちいう。それがね、それもとりもなおさず私は親先生の信心を頂くという事はね、まずそういうところから始められなければならないという事です。素直にて雲の上までのぼる道ありと教えられる。その素直のいうならば、内容というものがです、信心ではどういうところに素直なものを持っておらなければならないかというと、いうならば、親先生の信心を中心としての素直さでなからなければならない。それは、神様を中心としたところの素直心でなからなければいけない。暑いからこの傘に入らないか、いいえっち言ってから入らんと言う人がある。これに入りゃもう絶対安心の下に入れる、傘下に入られるのにです、いいえと言うて自分の流儀をたてていこうとする人がある。それはね、いかにも良いようであってです、親先生の信心を頂くという事にならんのです。
 今日、午後の奉仕をさせて頂いておる時に、頂いた事をこう紙に書いておった。★御心眼にその事願わせて頂いたら、袖という字、ね、袖という字、ネを書いて由という字書いてある。これはそでと言う。そして、その袖という字にね、下の方へこう、由のところにそれを突き通して心棒のようにすーっとこう引いて下さる。どういう事になりますか。ネの、これ何という字、どげんですか。どげんなりますか。えっ、ええ、神という字になるでしょう。これをね、ある、現在恋愛中という人なんです。ところが相手に待てども暮らせども返事も何も来んというわけです。だから、心も寂しいし、イライラもするわけです。その人に対してです、もう向こうは袖にしようと思いよる。袖にするという事は意味は分かるですか。洋服姿にズボンと惚れて袖ないお方で暮らしたいちゅう都都逸の文句があります。袖ないお方で暮らす、袖がないからもうふられないちゅう意味なんです。袖にするという事は、振るということなんです。向こうは振ろうかと思うておる。どうでも良いと思うておる。ですから、こちらの方はどうでもと思うておるんだから、そのどうでもと思うそこんところをやけを起こさずイライラせずに、今もう一辛抱という事、この辛抱もちょっと長くせろとこういう、そうすっと、神になるという事はおかげになるという事。私はそういう御取次を頂かせてもろうたら、どんなものでも元気が出ると思うね。そういう時に直面しておるときにです、今ね神様がこげんお知らせ頂いたよと、あんたが、何々さん何々さんと一生懸命思うたり、言うたり、いくら手紙を出しても返事も来んと言いよるけれどもです、向こうはいろんな都合があっての事であろうけれども、まあ、いうならばどうでも良い、袖にするならしてもよいというぐらいにしか思うとらんかもしれん。けれどもあんたがどうでもと思うなら、もう少し信心になりなさいという事。神になりなさい、信心になりなさい、もうひと辛抱だと。そこに、願いが成就するんだ。そういう意味での御取次を頂かせていただきますとです、やはり心に元気がでる。同時にやはり先生を信じるというかね、神様を信ずるというか、頂く心の状態というものをいよいよ有難いものにしていかなければならん。
 今朝の、ああ今朝ではない、★一時の御祈念の御理解に、初めてあんな言葉で表現頂いたんですけど、大不思議と小不思議という事について頂いた。そんな事聞いた事がない、字引なんか見たってありゃしません。大不思議と小不思議と。信心しておかげのあるを不思議とは言うまじきものぞと、という御神訓に基づいての今日の昼の御理解です。夏がある、冬がある。昼があればまた夜もある。そういう天地にみなぎる一切の神様の働きというものはです、人間氏子を中心にしての御働きであるという、これは人間だけという事ではありません。生きとし生けるものの上にそういう働きこそあってるけども、結局はその中心は氏子と呼びかけて下さる、信者氏子と言うて下さるその信者氏子の上にです、天地が働いて下さっておる、これはもう霊妙不可思議な大不思議であります。ですから、私どもが例えばこうやって息を吸うておる事も、お水を飲んでおる事も、もうすべて当たり前のように思う事の中に、大きな不思議なおかげをこうむっておるんですけれども、そういうおかげをおかげと感じれないところに信心が必要になってくるです。理屈を聞く、天地の道理を聞かせてもらうと、なるほどそういうもんだなと、なるほどこれを神様の働きと言うのだなと、その神様の働きを私どもが受けないものは誰一人とてない。信心があろうがなかろうが世界中の氏子におかげはやってあるというのが、その大不思議なのである。だからその、大不思議を実感として頂かせて頂く事のためにです、お互いが、いわば私の信心を現そう、私の信心を頂こうという事にならなければならんのです。私自身の信心は皆さんがご承知のとおりなのです、おかげを受けておるということにおいては。現れておるから見て下さっておる通りなのです。
 今日昼の一時の御祈念に、朝だったか、朝の御祈念に参ってみえた熊谷さんがお届けをなさっておられる、ああ、昼じゃったか、やっぱ。昨日から今日にかけて、もう神様の働きのただただ素晴らしい、一分一厘間違いのないお働きの中に、日々おかげを頂いておるという事がもったいない。昨日のお届けの中に、あれ何の事だったでしょうか、先生、長男の(のりお?)さんがね、先生、あの人が大学に受験する、高校の先生も(まちがいうけおうように?)と言うて下さったから、その大学に受験した。ところが、一年たった二年たった三年たっても滑った。ただただ息子の大学入学を願いとして、それこそ吉井から久大線ではだし参りで当時の椛目に毎日お参りをさせていただいた。あの人が通るまではどげな事があってもお参りをするぞという、親の愛情というか執念というようなものを燃やしてです、あの人が大学に受験まではと一生懸命がんばった。そういう、何回目もの受験が、通らなかった時に、田主丸のむつやの、まあ信者さんのお母さんです、清子さんに、もう本当に私はどうしてあげんおかげ頂ききらんじゃろうかというて話した。そしたら、あの、清子さんが言いなさいましたつを、と言うて昨日話されるんです。その事をね、どうしてあげん熱心に信心しよんなさいますとに、あそこののりおさんは、とにかくあげん頭もあげん良うありなさるとに通りなさらんでしょうかち言うて私がお尋ねしたら、親先生がもうひやひやっちいうてから手を叩きよるばいち仰ったち言う。(?)こっちはもう本に泣きの涙で、もうとにかく恥ずかしいごとある。もう子供が受験する事のためにもうそれこそ吉井から椛目あたりまでも、しかも草野の久大線からもう、あの駅から椛目まで歩いてくる。その中にある時に痴漢に襲われてなった事もあった。もう泥だらけで椛目まで、その、来なさった。それでもやはり、その、朝参りをやめられなかった。そういう様々な難儀を通らせていただいて、そういう立派な信心をしておるからみんなも不思議に、どうしてじゃろうかとこう言う。から親先生にお尋ねしたら、私は心の中ひやひやと手を叩いて喜びよるよと、熊谷さん、仰ったですよということがです、最近になって初めてよう分からせて頂くようになりましたとこう言うた。あれが一年ででき二年でできとったら、もうあの時点で私は朝参りをやめておったでしょうと、信心は続けておったかもしれません。けれどもあの人が、いわば合格するまではというのが、朝参りの、いわば発眼の元であった。その熊谷さんが、なら昨日、今日お届けをしておられますようにです、もう神様の一分一厘間違いのない働き、はあ、お金が少し少なくなってきたと思うと、思いもない、孫たちが送ってくれたり、子供が送ってくれたり、思いがけない金が入ってきたり、先生今日もいろいろと、今日朝の御祈念のあとに、浮羽の町役場においでにならん用事があった。そしてあちらにおいでられて、こちらの一時の御祈念におかげを頂かせてもらう。ところがもうバスが行ったあとであった。そこへ、次あの、次の車が思いがけない時間に出た。バスに乗らせて頂いたら御湿りがありだした。あら、こりゃ傘持って来てないがと思うたら、合楽に着かせて頂くころから御湿りが上がった。と、まあいうような日々だというわけなんです。もうただただ信心をさせて頂いて、私の信心。私の取次を頂いて、おかげを受けておる、これは皆さんが日々体験しておられる事であろう。また私はこの体験がないならば、合楽に通うてくる大した値打ちはないと思うです。それこそ、置いた物を取るように、(  ?  )とは反対に一つ違いに互い違いになっていくという事もあるけれどもです、その辺の互い違いになっていく具合の素晴らしいのにまた驚くほどしの神様をそこに感ずる事ができる。そういうおかげを私は今日は小不思議と皆さんに聞いて頂いた。そういう小不思議のおかげをです、私共の身の上にも家の上にも頂き現していく事が、とりもなおさず大不思議のおかげをまた実感として有難いと受けられるんだというのです。いうなら、その大不思議の中にある私共、そこに心の底から有難いと、有難いものが湧いてくるほどしの信心を頂きたい。為にはです、んなら、合楽ではまずは合楽の先生の信心を頂こうという事にならなければならない。そこには、合楽の信心を頂くところからです、たったこのぐらいしか頂いとらんけれども、おかげは親先生が頂いておられるほどしの、いうなら一分一厘間違いのない働きを自分の周辺に現していく事ができる。いうなら大坪総一郎の信心を現していく事ができる。もっというなら金光大神の信心を現していく事ができる、神様の御働きを現していく事ができるということになるのです。
 私の信心を頂くというところ、私その事で、この水差しの、立派な水差しです。ところが上のこの蓋だけが違う、違う水差しでこう水を飲んでおるところを頂いた、ある人が。だから、水そのものには変わりはないけれども、どうでしょう、きれいな水差しがあるけれども、蓋が割れたか何かでしょう、だから違うとの柄んとばこう上にこうしてあんなら、これはちぐはぐと言うでしょう。水はそのまま同じかもしれません。けれどもです、そういうちぐはぐを感じるような、いわば、合楽の信心とちぐはぐを感じるような信心では、合楽に縁を頂いておる値打ちがない。いつも合楽と共にある、いつも合楽と共に修行をしておる、合楽と共に繁盛しておるんだという実感の中に信心をさせて頂くという事がです、有難い。それを、(  ?  )と、西岡先生が申しておりますようにです、いかにして親先生の信心を頂くかという事に焦点がいく、いかにしておかげを頂こうかというのではなくて、いかにして親先生の信心を頂こうかという事になって来る時にです、それこそ一言一句聞き漏らされない。しておる事、言うておる事をパチッと見ておらなければおられない。そして、あそこに私の信心の相違点を、というものを感じさせて頂くところから、次の改まりもまた楽しくできるっていうわけなんです。
 どうぞ、ここに御神縁を頂かれる方はです、いうならば、親先生の信心を自分の日常生活の上に現していく事のために、親先生の信心をいかにして頂くかという、それは真似からでも良いから入って頂きたいと思うですね。
 どうぞ。